SHOGEN IDA

熊野山 岩瀧寺
副住職

旅の途中、そこで出会った人も、仏教的な言葉じゃない表現で仏教の教えを言い表していたり。ある人は「流れに逆らわずに生きていけばいいんだよ」みたいなことを言っていました。めちゃめちゃこの人かっこいいなと思って。完全に仏教で言っているようなことだなと。その時お坊さんの生き方ってかっこいいんだなって思い直したんです。

GO GOTSU special interview #20
 
 

 

江津の東、波積(はづみ)町本郷にあるお寺『岩瀧寺(がんりゅうじ)』。1971年のこの地区を襲った大水害によって、都冶川治水計画が策定され、「波積ダム」建設が計画される。長い時間をかけて行われた協議の末、2006年に寺院移転が決定し、2012年には完全移転した。そのお寺から車を数分走らせれば全長121m、幅およそ18m、4段につらなる雄大で美しい「岩瀧寺の滝」(江津市指定文化財)がある。春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪化粧といつ見ても素晴らしいその景色は江津屈指の絶景スポットだ

副住職である井田昭彦さん(以下、井田さん)はお寺として、お坊さんとして「伝えたいこと」があり、様々なイベントを企画しながら地域に発信している。夏の「はづみ縁日」は恒例となっており、夏休みの子どもたちは自分たちの出店の準備を楽しそうに行なっている。お寺の役割、副住職としてやりたいこと、地域コミュニティ、明るく楽しそうな井田さんのその語り口調には、人を想う気持ちと優しさが溢れていた。

 

大学時代に失恋をしまして。もうどっか行ってしまおうっていう勢いだけで小笠原諸島を目指しました。船で25時間かけてですね。着いたものの、お金なんて持ってなくて、バイト代が入るまでの2日間くらい野宿しようと思ってて。でも1月か2月だったんでめちゃめちゃ寒いんですよ。


 

▲のどかな田園と田舎道が続く波積町。大田市との境が近いところに位置する岩瀧寺。

 

井田さんの生まれは江津ですよね。県外に出たのちに副住職としてお寺に戻ってこられるまでの経緯をお聞かせください。

 

井田さん:ここ、岩瀧寺の副住職をしています。それから島根県立少年自然の家(以下、少年自然の家)という施設で働いています。兼業ですね。元々岩瀧寺に生まれて、東京の仏教学部のある大学に進学しました。僕は次男なので、お坊さんを継がなくてもいいという状況ではあったんです。

学生時代は旅行が好きであちこち行きました。小笠原諸島(東京都小笠原村)に行ったときのことですが、「この人すげえな!」みたいな人に何人も出会って、その人たちの言っていることが、もう仏教学部で習っていたようなことそのものだったんです。「やっぱりお坊さんっていいな」っていう気持ちになったんです。

仏教用語に「得度(とくど)」といってお坊さんになるための儀式があるんですけど、それを在学中にやりました。それから愛媛の道場に2年弱修行に行ったのが2004年、その翌年に江津に戻ってきたという感じです。東京で就職する可能性はゼロというぐらい、人が多いのがしんどかったんですね(笑)。

帰ってきてからは、1年ぐらい児童クラブにいたんですけど、その後、少年自然の家で働くようになり、あわせてお寺に関わるようになりました。帰った当時はお寺だけで生計を立てていくことを目標にして、いわゆる嘱託職員 – 今は会計年度任用職員 – の形でお坊さんをやっていたんですけど、他にも何かいろいろやってみようかっていう気持ちや、お寺って一体なんだろうということを考えていました。

少年自然の家に勤めているのもそうですが、純粋に子どもと遊ぶことや自然が好きだったので、そういう関係のイベントをしていきたいと考えるようになりました。滝登りに行くキャンプをしてみたり、ウォーキングのイベントをしたり、お寺のすぐそばにみんなでピザ窯を作って、ピザパーティーをしたりね。はじめのうちはエンタメ中心のイベントが多くて宗教色があんまりなかったんですけど、「はづみ縁日」っていう夏祭りのイベントが「楽しさと仏教のありがたさ」みたいなものの両方を味わえるイベントかなと思って開催しました。

 

話が少し戻りますが、小笠原諸島の体験っていうのは今もそうやって記憶を遡ったときに出てくるほどのインパクトだったんですね。どんなことがあったのか気になります。魅力的な方たちと出会ったんですね。

 

井田さん:全部言うとですね、大学時代に失恋をしまして。もうどっか行ってしまおうっていう勢いだけで小笠原諸島を目指しました。船で25時間かけてですね。着いたものの、お金なんて持ってなくて、バイト代が入るまでの2日間くらい野宿しようと思ってて。でも1月か2月だったんでめちゃめちゃ寒いんですよ。初日から震えながら深夜3時か4時ぐらいに自販機にコーヒーを買いに行ったときに、近くでバーをやってるおじさんが「どうしたの?」って声をかけてくれて。これまでの事情を話したら「うちに泊まりなよ」って言ってくれて、そこから1週間ぐらい泊まらせてもらったんです。いつ帰るか決めてなかったので、無料で泊まらせてもらいながら、飲み屋の片付けとかを手伝ったりするぐらいで、あとはフラフラしていました。

あちこち回っているときに「自然派の宿」を目にしました。最近では自然派が増えていますけど、あの当時(20年以上前)はあんまり多くはなかったんじゃないかと思います。 そういうエコな生活みたいな、例えばコンポストトイレとか、そういうことをやっている宿のオーナーさんに働かせてほしいと頼みに行って(笑)。1月は暇だし働けないよって。でも、お金ないなら半額でいいから泊まっていきなよみたい感じで泊まらせてもらったんです。そこで衝撃的だったことがありました。飼っている鶏をシメていただくみたいなイベント「命をいただく集い」っていうのをやるって言われたんです。

すでに僕が仏教を学んでいることは伝えていたんですけど、鶏小屋の前に連れて行かれて、お経を読んでくれと。般若心経(はんにゃしんぎょう)という、いわゆる仏教でいうと定番のお経なんですけど、僕はそれこそ「まだお坊さんをやってないから、読めないです」と言ったんですよね。そうしたら「途中まででもいいから読んでくれ、」ということで途中までの情けないお経を読んで、「すいません、ここまでしかできないんです」みたいな話で。それでも「これで心を込めて(鶏を)いただけるよ」って言ってもらえて。

そのときに何ですかね、自分が食べているものは命を奪って、殺(あや)めて食べて生かされているっていうことと同時に、なんだろう、お坊さんに対してというか、供養するということを大切に考えてくださっていることが伝わってきて、すごく衝撃的だったんです。死んでから供養じゃなくて、死ぬ前にお経を読んでいただきますっていう気持ちのお話なんですね。お経を読めない自分がちょっと情けなさすぎて、これはちゃんとやらないと駄目だなと思ったんですね。それがお寺に戻ってくるまでの中で一番大きい出来事だったかもしれないですね。

そこで出会った人も、仏教的な言葉じゃない表現で仏教の教えを言い表していたり。そこにいたある人は「流れに逆らわずに生きていけばいいんだよ」みたいなことを言っていました。めちゃめちゃこの人かっこいいなと思って。完全に仏教で言っているようなことだなと。 それまでは、お坊さんってかっこ悪いみたいなイメージがどうしても僕にはあったんです。そのとき、お坊さんの生き方ってかっこいいんだなって思い直しました。それで地元に帰ろうと思ったんです。

 

 

▲岩瀧寺は「石見銀山領33ヵ所巡り・第二十八番札所」としても名の知れたお寺だ。

 

そこから今日まで約20年くらいですね。今のお仕事というと、副住職さんやイベント業務など具体的にはどのようなことをやっているのでしょうか。

 

井田さん:仕事として今やっているのは、月の半分ぐらいは少年自然の家に勤めています。子どもたちがいろんな体験をする支援、サポート。体験を通して学びを深めるみたいなことはいいなと思っているので少年自然の家はいいですね。お寺の方は住職が父親なんですけど、元気にやっていますので、法要があるときは一緒に営んでいます。

檀家さんは多くはなく、毎日法事があるわけではないので、最近だと、曹洞宗青年会の活動を11月まで、ワーッとやっていました。曹洞宗青年会の中国大会がちょうど石見であって、大会の実行委員長をさせてもらったんです。今回のテーマが終活だったので、僕の専門分野とは全く違うんですが、終活ノートを作りました。いわゆる「死に向かって準備しよう」というものです。それこそ10年ぐらい前に流行ったんですよね

 

ご存知の通り、終活ノート(エンディングノートとも呼ばれる)は自分史や財産の状況、葬儀の内容や要望、家族や友人に宛てたメッセージなど、人生の最期に向けて必要な情報をまとめたものである。備忘録としてのメリットもあり、残された家族にとっては大切なものだが、他方、お坊さん側からするとやや批判的なところもあるという。既存の終活ノートには、葬儀やお墓を簡略化させようとする意味合いの表現が使われているものも多く、それはお坊さんやお寺の存在感を揺らがせるからだ。しかし、井田さんはこれに異を唱える。「批判する前に、『死』についての話はお坊さんこそが専門家であり、私たちがしっかり伝えていくべきだろう」と。終活ノート制作に割ける予算が確保できたこともあり、満を持して制作したという。

 

井田さん:この終活というのは、どちらかというと「死を迎えるためのもの」というアプローチで進めるものではあるんですが、それだけではなく「死を見つめることによって今生きているこの瞬間を振り返ることができる、大切にするようになる」という効果、側面もあるんです。 実際、自分も書いてみて感じたのは、死のことを考えるんですが、結果、今をどうやって生きようかなっていうところに行き着きます。

多分ほとんどの人はそういう方向に向かうんじゃないかなと思います。だからこそお坊さんというのは、どう生きていくかとか、幸せに生きていくための教えというのを広めていく役割があるんです。それが仏教です。まさにお坊さんが取り組むのがこの「終活」でしょうっていう想いで作ったのがこの終活ノートなんです

今、葬儀がミニマム化しているのは言い方が悪いんですけど、お坊さんの怠慢が原因だと僕は思っているんです。家とお寺の関係、いわゆる檀家制度が江戸時代にできました。あなたの家はこのお寺ですと決められていたわけです。法事とかお葬式とかのときは必ずそこを使っていただくというような形があり、何もしなくてもお寺さんは檀家さんに尊敬されていたんです。

現代は寺と家の関係ではなく、もっと個の関係になりました。簡単に言えば宗教離れですよね。時代の流れもあるとは思いますが、お寺さんが仏教の教えの素晴らしさを伝えていくことを怠ってしまっているのではないかと私は考えているんですね。

 

少子高齢化や過疎化といった問題は小さな地方都市にとって常に向かい合っていかなければならない課題だ。財政的にも右肩上がりの時代ではないし、経済格差も生まれている。そのような時代の中でこそ、人はどのように生きていくか、自分にとっての幸せとはなにか、について考えていく必要があるように感じる。 思想や宗教哲学が今、改めて求められているのかもしれない。井田さんの話を聞く限り、「死」はもちろん、お寺の役割、必要性や可能性を強く感じる。大半の人は何かしらの悩みを抱えているし、これから将来、どうしようと迷う人もいるだろう。しかし「死」はいつの日か全員が迎えるもの。むしろ「死」に向き合うことは生きる力を与えるものだとも感じるのだが、井田さんはどのように考えているのだろう。

 

▲全長121m、幅およそ18m、4段につらなる雄大で美しい「岩瀧寺の滝」。(編集部撮影)

 

井田さん:今、いろんなイベントをやっていますが、自分の中での一番の挑戦としては「岩瀧寺寺子屋基金にご協力ください」というもので、子どもが体験するイベントを岩瀧寺でやるときに、参加費を無料で全部やるというのを去年の4月から始めたんです。運営資金は寄付を募って賄うというチャレンジをしていて、ひとつは体験の均等化といいますか、お金がないと参加できないということをハードルにしたくないっていう想い。もうひとつは自分のことを何も知らない大人が自分のためにお金を払ってくれている(寄付でイベントが成り立っている)という事実を子どもたちに伝えたいという想いがあります。

お金のやり取りというのは、生活の中で絶対必要なものですが、それとは別の価値観というのがあるんだということを伝えたい。お寺のお布施がまさにそれです。お布施というのは、自分の中にある「我(われ)が我(われ)が」という欲や苦しみに繋がる自分の煩悩を抑えるための「ご修行」として喜んでお渡しするものです。

 

▲写真左:みんなで作ったピザ窯でイベント開催。写真右:夏に行われている「はづみ縁日」。常に子どもたちが主役だ。(写真提供:井田さん)

 

僕は、お金を払ってくれている大人がいるんだということと、その人に恩返しする必要はないから、今度は自分が誰かにお金を払ったりとか、例えば人のために何か動けるような力が身に付いたときに「恩送り」をしたりとか。こういう感覚がこの地方には多分まだ残っているのではないかと思っているんです。波積町は少なくともこの感覚がすごくあるのかな。資本主義や経済活動とは別に、「生き方や考え方といった価値観をお寺こそが伝えていかないといけない」、それが使命なのかなと考えていますし、仏教の根本の教えにそういうことがあるんですね。

小笠原諸島の話にまた戻りますけど、体験で感じることと大学の授業で感じることが全然違うというか、差があります。体験で感じることは本物になるなと。百聞は一見にしかずとよく言いますが、行動するのが一番わかるみたいな。今、説教を聞いてくれる人は高齢者以外にほとんどいなくて、それならば体験(イベント)を通じて伝えてみよう、気づいてもらおうというスタンスでやっています。僕の中では説教の替わり、と言えるかもしれません。

 

そういう想いでイベントをやってきてよかったなと思えた瞬間はありましたか

 

井田さん:参加者さんに伝えようと思ってやっているイベントだったんですけど、ボランティアスタッフさんをたくさん募って協力してもらっています。そのおかげでイベントができています。いろんなイベントをしているんですけど一番はそこが嬉しいことなんです。近くにいるボランティスタッフに伝わっているのではないかと思って。うちのボランティアは本当に昼御飯ぐらいしか出せないようなもので、その経緯もお伝えしているんですが、それでも楽しんでやってくれる皆さんが集まってきてくれて。本当にありがたいです。そういう意味では続けるっていうことも大切だなと感じています。

 

▲岩瀧寺の敷地内にあったレモン木。江津には柑橘系の木が多く自生しているのをよく目にする。

 

基本的に僕はポンコツだってよく言われるので、だから、一生懸命さしか取り柄がないタイプなんです。一生懸命やっているから手伝ってやろうかって集まってくれる人が、多分、今のボランティアスタッフさんだと思うんですよ。


 

岩瀧寺はとても広く、イベント会場にはピッタリですが、たしかに人手はいりますよね。ボランティアスタッフさんの協力なしではなかなか出来ないと思います。

 

井田さん:僕は「ポンコツだ」って言われるんですね(笑)。「手伝いしろがある」っていうんですかね。本当は自分ひとりでやろうとしているのにできていないくて、危うすぎて手伝ってあげようっていう気持ちになる、そんな感じがあります。だから、ポンコツは全然悪い意味で捉えてなくて、むしろポンコツだから人が集まってくれて、伝えられているっていう風に思っているんですよね。
僕が本当に伝えたいことを伝えられているのは、ボランティアスタッフさんなのかもと今は感じていますね。イベントのときもそうだし、打ち上げでワイワイ喋ったりする中でもそうです。最初は全員に伝えたいと思いましたけど、いろんな考え方もあるし、全員になんて伝わるわけがないじゃんって思うようになってからは楽になりました。伝わる人には丁寧に、ちょっとでもそういう人が増えて、またそれに合わせて少しでも質が高まったらいいなと思っています。波積の若い人たちにも伝えていきたいですね

 

お坊さんの使命ということに尽きるとは思いますが、今の井田さんにとってこのような活動の原動力、突き動かしているものは一体なんだと思っていますか。

 

井田さん:やっぱり仲間ですね。毎回準備しているときは「もう今年が最後だ」って思うけれど、終わった後に仲間と一緒にね、うまくいったなとか、ここは改善の余地があるなとかを話して、こりゃ頑張って来年もせにゃいけんなってなるんです。あとは来場者が喜んでくださっているのが伝わってくると嬉しいですね。うん、そういうところですかね。

 

▲都治川にある波積ダム。洪水氾濫などの河川水害対策のために建設された。

 

江津市は「創造力特区へ。」を掲げてもう7年以上経過しています。それぞれが持ってるクリエイティビティ、それがこのまちでよりよく生きていくひとつのヒントになるものだと解釈していますが、井田さんはこのスローガンをどのように解釈しますか。

 

井田さん:以前、同じ質問をされたことがありました。そのときは「(創造力は)なくてはならないもの、これからの時代を生きていくのに絶対必要なもの」みたいな表現でお伝えしたんですね。改めて考えてみると、ちょっと逃げているというか、あんまり考えてないなと思って(笑)。

そもそも創造力って創造力じゃんって思うんですけど、それをもうちょっと解像度を上げるてみると、僕みたいな凡人だと結局経験したこととか、それまで持っていた知識などに加えて、新たな刺激っていうか、そういうものをうまく組み合わせるというか。ロジカルにそれらを組み合わせていくっていうのが創造するっていうことなのかなっていうのことを思っています。

イベントをするにしても何となく思いついてやるよりは用意周到に一応、目的とか、人数とか、どんな流れでやるかとか、組み立てて作っていく必要はありますよね。やり始めると、予想していなかったことも起きていくし、こういうときはこうなるんだっていうことが組み合わさって出来ていくものです。自分、仲間、来場者、いろんなものが組み合わさってカタチになっていく。

三国志の劉備(りゅうび)みたいな、武力も知力もそんなにないけれど、すごい人が集まるみたいなことを例えで言いますよね。イベントの打ち上げのときに、ある人が「たらし力」っていう表現をしていて。その人が言うには、「自分はいろんな人たらしの凄い人には会っているんだけど、井田みたいな人間は初めてだ!」っていうんですよ。 それがポンコツだっていう話なんですけどね。「うまく人に頼りながらやっていく、たらし力」じゃなくて、「やりたいけどできない、できそうにないから助けてあげようって思わせる」のがお前はうまいって(笑)。

 

 

GO GOTSU! special interview #20 / SHOGEN IDA