使いやすさを追求したすり鉢と、驚くほど軽い力で使えるおろし器。これを「もとしげ」のブランドにする。
納得したことじゃないとやりたくない自分の性格。
「それは違う」って言われても、自分がやってみて違うっていうのを確かめないと気が済まないんです。
〈Vol.22〉2025年3月10日
元重 慎市さん
ー Shinichi Motoshige
ー 元重製陶所 4代目


取材・文・写真
戸田コウイチロウ〈GO GOTSU.JP編集部〉
使いやすさを追求したすり鉢と、驚くほど軽い力で使えるおろし器。これを「もとしげ」のブランドにする。 納得したことじゃないとやりたくない自分の性格。 「それは違う」って言われても、自分がやってみて違うっていうのを確かめないと気が済まないんです。
江津のまちに全国のホームセンターで売られているすり鉢の約9割のシェアを誇る製陶所があることをご存じだろうか。嘉久志町にある元重製陶所だ。創業は大正14年、100年の歴史がある企業だ。石見焼の工芸技術によって開発された水がめに始まり、すり鉢、園芸鉢といった日常づかいの陶器製品を主軸に全国に販路を拡大し、事業を行ってきた。
今回は元重製陶所4代目の元重慎市さん(以下、元重さん)にお話を伺う。元重製陶所は全員正社員で、元重さんと社長である父、母、そして従業員の方7名の合計10名の会社だ。
進学と就職で20代の大半を大阪で過ごした元重さんは、なぜ江津に戻り家業を継ごうと思ったのか。元重製陶所の「社員」としてどういった業務に取り組み、その手応えはどのようなものだったのか。商品開発や販路開拓におけるビジネス上の悩みや葛藤、考え方、そしてこれから先の事業継承についてお話を伺う。聞くにつれて、ものづくり職人としての元重さんと、ビジネスマンとしての元重さんの両面の人間性が浮かび上がってきた。

▲市内を走る産業道路沿いにある元重製陶所。北側はすぐに日本海だ。
高校卒業後のところからお話を始めたいと思います。その後、どういうことをして、今に至ったのか。ぜひ聞かせてください。
元重さん:出身は江津です。浜田高校を卒業しました。その後は、大阪大学に進学し、大阪でずっと一人暮らしですね。学部は工学部です。昔から算数や数学、理科や物理が好きだったんです。得意な科目から選んだみたいな感じですね。工学部を出てから特に何かこういう仕事に就きたいなというイメージがあったわけじゃないんですけど、卒業してから大学院に行ったので計6年間大阪大学にいました。入学は2003年、大学院を出たのが2009年ですね。
大学院では何を専攻されていたんですか?
元重さん:生産科学専攻っていうところですが(※編集注:現在は大阪大学大学院工学研究科 マテリアル生産科学専攻とある)昔で言うと溶接かな。大きい括りで言うと機械関係なんですけど、その機械関係の中でいろんな機械をやっている専攻と、ちょっと外れて溶接をやっている生産科学専攻という科目があって、そこで学びました。ただ、それも特に何か理由があって行ったわけじゃなくて。なぜかそっちを選んだって感じなんですよ。あまり考えていなかったのが正直なところです。
江津と浜田で生まれ育って、その後都会の大阪へ。どんな暮らしをされていたんですか?
元重さん:大学のときに一番印象に残っているのはサークルですかね。テニスサークルに入っていたんですが、それが一番楽しかったです。正直、授業はほぼ聞いてなかった。全然真面目じゃなかったです。それまで勉強勉強だったので、反動が出たみたいな感じですかね。テニスサークルとバイトも人並みにやっていましたよ。飲食店のキッチンとか学食の皿洗いとかです。大学院を卒業して24歳。
その後はパナソニックに就職して丸6年働きましたね。勤務地は大阪の門真市です。1年目はほぼ研修。2年目以降は部署的に生産設備を設計する部署にいました。パナソニックは工場がいろんな地域にあるわけですけど、各工場向けの生産設備を作る部署です。だからテレビを作る機械だったり、電池を作る部署だったり。それをプロジェクト単位でいろんな場所に携わるといった仕事をしていましたね。退社するまで機械の設計の仕事をずっとやっていました。江津に帰ってきたのは、ちょうど30歳のときですね。
退職するきっかけは何かあったんでしょうか。
元重さん:入社したときは、実家に帰ることは全く考えていませんでした。大学に入るときはもちろん考えていません。家業のことは正直あんまり考えてなかったんですね。将来何をやりたいとかっていうのを考えないまま、受験も就職もやってきて、サラリーマンで働いてみて、自分はこれから何がしたいんだろうということを初めて考えたようなところがあります。
振り返ってみて思い起こすのは仕事がきつかったこと。「なんでこの仕事しているんだろう」とかね。辛くなくて楽しかったら、こういう考えには至らなかったかもしれないですけど。結論として、「自分にはサラリーマンが向いてないっていう考えに至ったんです。
上司に「これをやれ」って言われることがあるじゃないですか。自分で納得してないことを「いいからやれ」みたいに言われるのが、ものすごい僕にとっては苦痛なんですよ。できる人は多分そのまま言われたから、すんなり受け入れるかもしれないんですけど、僕はそれがとにかく苦痛。何をするにしても自分が納得したことじゃないとやりたくないっていう。そういう性格だってことに気づいたんです。でもサラリーマンである以上は、やらないといけないじゃないですか。だからもう、これは無理だ、続けていけないなと。

国立大学と大学院で工学を学び、大手企業に就職。今でこそ年功序列や終身雇用といった「会社はずっと自分と家族を守ってくれる」ことなんて期待できない世の中、と言われますが、大企業にいることによる「安定」を求める人も多かったと思います。自己満足のような感覚はなかったんでしょうか。
元重さん:多少はあったような気はします。ただ僕の場合は、大学に入るときも上から数えてここなら行けそうだなっていうところを選んだみたいな感じなんですよ。そういう考え方でやっていたんです。だから就職するときも、大阪が気に入っていたので大阪にいたいという気持ちはありました。大阪でどこかいい就職先があるかな、なんて考え出して。
工学部だから大体みんなメーカーに行くんですよ。それで上から数えていってパナソニックがいいとなったんですね。大して考えていなくて、ここならいけるかなみたいな考え方でした。大企業で働いている、満足だ、という気持ちも多少はありましたけど、やっぱり働き方のところで駄目だったんですよね。30歳になったときに帰ってきましたが、28歳ぐらいのときには、そういう考えになっていました。
実家を見たらですね、すごい設備があるわけですよ。もし僕が今、ゼロから起業してこの設備を一から作り上げようと思ったら、多分何千万とか1億以上のお金が必要になるわけです。何ができるかは全然わかっていませんでしたが、これを活かしてやるのが一番いい道に見えました。
パナソニックを退職して、江津に戻り、家業に入ることになるんですね。
元重さん:転職して別のサラリーマンをやっても、結局納得しないままやることになることが想像できてしまうというか。いい仕事に当たるかもしれないけど、同じように働けないとなるんだったら解決しない。サラリーマンでいる限りは自分の納得したことじができないと気づいてから、初めて家業に目が向いたんですよね。
起業することも少しは考えました。でも実家を見たらですね、すごい設備があるわけですよ。もし僕が今、ゼロから起業してこの設備を一から作り上げようと思ったら、多分何千万とか1億以上のお金が必要になるわけです。それがあるんだったら、これは自分にしかないアドバンテージだと思ったんですよね。何ができるかは全然わかっていませんでしたが、これを活かしてやるのが一番いい道に見えました。それで帰ってきたんです。
両親に伝えましたが、とても喜んだっていうわけでもないし、渋々みたいな感じでもないし、すんなり「よろしく」みたいな感じでしたね。それまで両親とは1度だけ話したことはありました。就職するときに父は「別に継いでくれても、そうでなくてもいい。会社に借金があるわけじゃないから、(自分の代で)畳んでもいいと思っている。」という感じでしたね。なので自分で選択しました。家業には2015年の入社で、役職は最初から専務で今も専務です。

入社してからどのようなお仕事をされていたのでしょうか。
元重さん:会社のこれまでの話から始めたほうがわかりやすいのでそこから話しますね。元重製陶所の創業は大正14年、西暦で言うと1925年です。初期の頃は水がめを作る会社で、それを全国に販売していく事業でした。その後、水道が普及すると急激に水がめの需要はなくなっていくんですね。
水がめの次に植木鉢を作る時代がありました。すると今度はプラスチックのプランターが普及してきて植木鉢の売り上げが急激に下がっていきます。丁度どん底の時代に私の父が3代目として入りました。それを何とかしないといけないっていうことで始まったのが今の「すり鉢」です。これ以降、ずっと主力製品として専門でやっています。すり鉢専門に舵を切ったのは父の決断でした。私が生まれた頃、1980年代中盤からずっと従来型の赤茶色のすり鉢だけを専門に作り続けてきました。売り先はホームセンターです。
すり鉢の需要というのも徐々に減ってきています。自分の周りの若い人たち全員が必ずすり鉢を持っているかというとそうではないですよね。昔の家庭にはほとんどありましたけど、今の家庭は必ずしもそうではない。売り上げも少しずつ下がっていきました。
私が入社したのは、まさにそのタイミングでした。そこで何をしたかというと、「おろし器」というものを新しい商品として、量産体制を整えることから始めました。父が2009年頃から「すり鉢の代わりになるものは何かないかな」と考え始め、「おろし器はどうだろう」ということで2009年頃に試作をスタートしたんです。5年ぐらい時間をかけて、どうやったら量産できるのかを考えながら試行錯誤を繰り返して、ようやく機械が出来上がったのが2015年ぐらい。そこから、すり鉢におろし器が加わりました。
販路開拓はどのように進めていったんでしょうか。全国のホームセンターで売られているすり鉢のシェアが約9割を誇ると聞いたときは正直驚きました。
元重さん:社長がホームセンターに電話して問屋さんの情報を聞き出して、その問屋さんに向けて「うちのすり鉢を使いませんか」って営業しながらシェアを拡大していったみたいな感じですかね。

どんどん売り上げが下がっていって僕の中では一番厳しかったのが2017年頃。何とかしないといけないっていうことをいろいろ考えていました。結論としてはこの「もとしげ」という、『すり鉢おろし器専門窯元』というブランドを作る考えに行き着き、そこから少しずつ変化していきました。
国内でそれなりの生産ラインを持ってすり鉢を作っている製陶所メーカーは全国で大きくは3社ほどだという。元重製陶所の他は、岐阜県のマルホン製陶所(明治43年創業)、愛知県のヤマセ製陶所(明治時代末期創業)だ。どの企業も長い歴史とともに特徴的な商品を作り続けている。
一方、現代に至るまで日本人の生活様式は絶えず変化してきた。すり鉢やおろし器のニーズを保ちながら、危機感も持つ元重さん。この先の自社事業をどのように捉えているのだろうか。
元重さん:入社してすぐやったことというのが、もうひとつあります。ホームセンター向けの新しいおろし器の販売です。うちのおろし器の特長は刃の鋭さです。軽い力でおろせるんですよ。これを売りにしていて、実際に周りの人に使ってもらったりするととても反応がいいですし、対面で販売すると皆さん喜んで買ってくれるんです。これはいけるということで社長が実際に作って、量産体制を整え、ホームセンターにこれまで築いてきた販路があるので、卸していきました。
ただ、ホームセンターではほぼ売れなかったんですよ。それをどう分析しているかというと、すり鉢っていうのはホームセンターにこのすり鉢1種類しか置いてないですよね。サイズが何種類かあると思いますけど種類としては1種類です。けれども、おろし器はいろんな種類が置いてあるわけですよね。プラスチックのもの、金属のもの、丸い白いセラミックのものもある。値段も様々です。その中でうちのおろし器を選んでもらわなければいけない。
すり鉢に関して言えば、ホームセンターに行くとほぼ買ってくれるのですが、おろし器は今までにやってきていない戦いなんですね。値段も別に安いわけじゃない、使ってもらえたら「これはいい」と言ってもらえるんですけど、それが見た目から伝わるわけでもない。

▲元重製陶所定番のすり鉢。
元重さん:実際、ホームセンターに結構並べてもらうことはできたんですが、リピート発注がほぼなかったんです。結果としてはうまくいかなかったと。その間もいろいろ試行錯誤をしていました。例えば、すり鉢を使った料理教室をやって若い人向けに「すり鉢レシピ」っていうのを自分で考えて使い方を知ってもらおうと思って活動しました。それもあまりうまくいかなかったんですけどね。それから離乳食にすり鉢を使うことを知っていたので、離乳食をきっかけにして使ってもらう機会を増やせないかなと思って「離乳食用すり鉢」というのを作って乳幼児用衣料・雑貨品等を中核とした大手小売店チェーンに提案させてもらったりもしました。それも結局、取り扱ってもらうまでに至らなかった。
色々やったけど全然うまくいかないっていうのが、2017年ぐらいまでの話です。どんどん売り上げが下がっていって僕の中では一番厳しかったときです。何とかしないといけないっていうことをいろいろ考えていました。結論としては、この「もとしげ」という、『すり鉢おろし器専門窯元』というブランドを作るところに行き着いて、これがすごくうまくいったんですよね。
いろんな人との出会いがありました。例えば群言堂(島根県大田市)さんとの出会いも大きい役割を果たしていますし、あとは中川政七商店(全国のこだわりの品々を取り扱うプラットフォーム)さんとの出会いも大きかった。このあたりのことについて詳しく話をさせてもらってもいいですか?
もちろんです。とても興味深い内容なのでぜひ聞かせてください。
元重さん:まず群言堂さんです。テレビで知ってすぐに創業者である松場大吉さんに会いに行きました。まず、このすり鉢を群言堂さんで販売していただけないかという話をしたんですね。でも「ホームセンターと同じものは売れない」と言われてしまいました。実際に同じものがホームセンターで安く売っている。価格競争になるわけじゃないですか。そこで「色を変えて売ったらどうか」って言われたんですね。そこで「群言堂さんオリジナルカラー」を作って売ることにしたんですよ。カラーはそのまま今も活きています。中が茶色で外側は白と黒っていうカラー。このカラーは群言堂さんのカラーなんですよ。形は従来型のすり鉢で、色だけを変えただけなんですよね。それで取り扱ってもらえました。
そこからホームセンター以外の場所、例えば地方の百貨店に行きました。今度は「色が違うのはわかったけど、従来型のすり鉢と何が違うの?」って言われて扱ってもらえなかったんですよね。色が違うことしか特徴がなかったんです。
しばらく悩んでいました。そんなとき、結構昔から読んでいた中川政七商店の本を読み直して、中川淳さん(株式会社中川政七商店の代表取締役会長)に手紙を書いて会いに行ったんです。もちろん奈良まで行きました。中川会長に会ってもらえたんです。こういう事業をして、こういう活動をして、今こういう悩みがあります、とお話しさせてもらいました。
「君はなんにもわかってないね。もっとマーケティングの勉強をした方がいいよ。」と結構厳しいことを言われましてね。何かモヤモヤしながら帰りました。それでも言われたからマーケティングの本も読んで、会長の本もまた読み直して、それでもモヤモヤした状態が続いたんですけど、ある時にバチッと「すり鉢おろし器専門のブランドを作るんだ」っていう考えが閃いたんですよ。

▲おろし器のサイズは大中小。セラミックの鋭い刃でおろしやすく洗いやすい。様々なオンラインサイトで販売されている。
東京の展示会で大きな反響をもらうことができたんです。量産体制はすぐにできないし、型をつくるところから全部やりました。手作業が続くし、その時期は体力的には大変でしたね。
元重さん:これまで試行錯誤をしていたものが、全部ひとつに繋がったような感覚がありました。これだ!っていうのを閃いたタイミングというのかな。中川会長の本にも「ブランドを作らなくてはいけない。」というのは、最初からずっと書いてあるんですよ。それが自分の中に全く腑に落ちていなかったというか、そこから理解できていなかったんですね。
従来型のすり鉢を続けていっても「専門ブランド」としてはちょっと弱い。丸型でいこうということだけは決めていました。これは「離乳食すり鉢」からヒント得ています。元々、離乳食を潰すときにすり鉢の外に食材がはみ出していくことが問題でした。「真ん中に集まってきてくれる感じがいいんじゃないか」という話を知り合いにされたんですね。それで、外に逃げていくものを真ん中に集めやすいようにこういう形にしたんです。

▲ユーザーの意見を聞きながら開発されたすり鉢。内側のギザギザの目(くし目)は、すり味を決める、言わばすり鉢の命だ。
元重さん:底が狭くて安定感がなくてグラグラするので、底を広くしてゴムをつけて安定感を出しました。これで今までのすり鉢とは違う、「使いやすさにこだわったすり鉢」が出来上がりました。それからおろし器です。商品としては元々良いものですが、認知度がなかった。そこで「専門家がつくる、使いやすいおろし器」とコンセプトを定義して形はほぼ変えず、若干ですが粒の大きさと数と配置を変えました。
商品をつくるだけではダメなんですよね。ブランドをつくることを通じてメッセージを発信する。そこに意味があるということに、はっと気付かされたんです。それが2017年の10月頃です。中川さんに会いに行ったのが7月で、そこはもうはっきり憶えているんですよね。
それから試作品を作り始めて、2018年の2月に東京ビッグサイトで展示会があって。島根県のブースとして出店する機会がありました。これに間に合わせようっていうことで日程的にはタイトだし、型も一から作らないといけないし大変でしたが、どうにか間に合わせて出展したんです。
このときに結構大きな反響をもらえたんですよ。試作品でしたが注文をもらえたのでそこから量産体制を整えないといけないわけです。まず型の数が60個ぐらいいるんですよ。その型を全部自分で作らなきゃいけないし、
おろし器の粒の数を増やすためにも機械を改造しないといけない。そう、おろし器の粒は機械で自動で並べているんですよ。そして、機械で並べられる粒の数は決まっています。機械を改造する時間が取れないから、最初のころは、機械で粒を並べたところに、追加で20粒、ピンセットで一つ一つ手作業で並べていました。
受注した分はどうにかしないといけないので、その時期は体力的には大変でしたね。でも手応えは感じていました。自分の中では「いける」っていう確信はもうその時点でありました。
もうひとつ、辛かったのは社長がね、めちゃくちゃ反対するわけですよ、僕がやることに。
「お前は馬鹿だ、ブランドなんかそんなんやってうまくいくわけないだろう」とか「展示会なんか意味ないだろう」とか。ずっと言われるわけですよ。
元重さん:会社の製品はこれまで父が開発したもので、父が販路開拓したものですよね。ホームセンターに強いこだわりがあるんです。でも自分の中で、このままではうまくいかないっていう結論を出していて、だから違うことやっているわけですよ。それが気に入らないんですよね。途中で投げ出して、別のことやっているように見えるから。「お前は馬鹿だ、ブランドなんかそんなんやってうまくいくわけないだろう」とか「展示会なんか意味ないだろう」とか。ずっと言われるわけですよ。
でも受注を取ってくれば、きっと考えは変わるはずだと思って、展示会に行って実際に受注を取ってきたんですけどね。それでも駄目なんですよね。ただ、「目新しいから選ばれたんだ」と思っている。受注を取ってきたら生産の手伝いをしてもらえると思っていたんすけど、手伝ってもらえないんですよ。あのときはね、日が変わるまで働いていましたね、一人で孤独ですよね(笑)。
結局、2021年に入ってもまだまだ機械を改造していましたね。受注に追われて、未完成な機械で効率が悪い生産しながら、何とか空いた時間で機械を改造する、そんな期間でしたね。それからはこのすり鉢とおろし器がかなりうまくいっています。

うまく動き出してから社長とブランドの話をされているんでしょうか。
元重さん:あんまり聞いてもらえないので、ブランドの話はしていないですね。売り上げとしても、3分の2はもとしげブランドの商品が占めているので、今更これが駄目みたいな話はしないですけどね。
元重さんの人間性、キャラクターについて興味がある。「自分がこれだ」と思ったら社内(組織)の中を調整したり、根回しのような行動をとるのではなく、寝食を忘れるほど没頭してプロトタイプづくりに打ち込み、形を見せて理解してもらう。それが結局一番早いし、理解してもらえる。そんな風に考えるタイプなのだろうか。そのままズバリ伺った。
元重さん:完全にそうですね。納得したことじゃないとやりたくないって言ったのと全く同じ話なんですけど、それは違うって言われても、自分がやってみて違うっていうのを確かめないと気が済まないんですよね。
もちろん、自分が信じた道が間違いだったということは滅茶苦茶いっぱいあるんですよ。すり鉢料理教室も、離乳食用すり鉢も、やってみた結果うまくいかないっていう風になったわけだから、自分がやることが全部正解だっていうことではないけれども、まずそれをやってみて確かめたいんです。
石見と言えば焼き物で、焼き物と言えば土です。この石見にある豊かな地域資源を活かすことが強みになると感じることはありますか?
元重さん:やっぱり、ブランドを構成する一つの強みです。石見焼の土は耐火度が高いんです。普通の陶器は高くても1,200度ぐらいで焼きますが、石見焼の場合は1,300度以上の高温で焼くんですね。
高温で焼くと強度が増すんです。すり鉢は特にそうなんですが、ギザギザさせて鋭くするのが特徴です。高温で硬く焼き締まることが大事なんです。磁器とかは耐火度は高いんですけど、表面がツルッとしていますよね。陶器はザラっとしています。すり鉢を磁器100%で作ると、どうしてもこの櫛目(くしめ)にザラザラが足りなくて具材が逃げていく感じになってしまう。陶器でありながら耐火度が高いというのが、すり鉢に向いている唯一無二の特長なんですよね。だからブランドのメッセージや役割を構成する一つの強みなんです。

ほとんどの地方のまちは、少子化と高齢化がより一層進んでいきます。石見地方を特徴づける産業であり、これだけ長い歴史がある企業、製造メーカーとして今後どうやって事業を存続させていくのかを考えることはありますか?この先の工芸、技術、ものづくりをいかに地域に残していくかという課題意識を聞かせてください。
元重さん:考えないわけではないですが、具体的に動いていることはまだないですね。今はうまくいっているけど、それでもこの先もっと色々なことをやっていかないといけないっていう危機感は常にあります。すり鉢やおろし器はリピートしてもらえるものではないので、行き渡るとこまで行き渡ってしまったら、段々と売上は下がっていくだろうと考えられます。新しい手を打っていかないと、という風には考えていますね。
例えば、土一つとってもうちの場合、瓦業者さんがいるおかげでもあるんですね。瓦って大量に土を使いますが、その中の一部を分けてもらっているんです。これって見方を変えると危うい状態の上に成り立っていると言えるわけです。うちだけの需要では、瓦用の土を掘る業者さんは成り立たないし、土を掘る業者さんがいなくなってしまったら、うちの土はどうすればいいのかとなってしまう。
あるいは工房で使っているたくさんの機械をメンテナンスしてもらう電気業者さんだって高齢化していますし、代わりは簡単には見つからないし、その後どうなるかって言われたらわからないわけですよね。いろんなバランスの上で事業が成り立っているということを今とても感じているんです。10年後も同じバランスで成り立っているのかは、正直わかりませんよね。そういう危機感は持ってはいます。考えていかないといけないポイントではありますね。
ここまでの話を聞けば元重さんが、どれほど自社の事業と製品に集中し、心血を注いでいるのかが伝わってくる。もう少し行間を読むと商品開発のために寝食を忘れるほど没頭し、販路開拓のためになら、たとえ遠方でも会いたい人のところに行って素直に学ぶ姿勢がある方だ。そんな元重製陶所4代目の元重慎市さんに「創造力」についての解釈をお聞きした。
元重さん:一言でいうと「ないものねだりをしないこと」だなと思っています。どういうことかというと、会社(家業)に戻ったときに「何ですり鉢なんだろう」って思ったんですよ。例えば、食品だったら1回気に入ってもらえたら、リピートして買ってもらえるじゃないですか。すり鉢って一人の人が気に入ってくれてもリピートするものではないですよね。もっとリピートしてもらえるものだったらいいのに、と思ったことはあります。
でもそれだと競合も多くなりますよね。どっちにしても長所と短所があるわけですよ。だからないものねだりをやめて、自分が持っているものに注力して、それをどう工夫できるかっていうことにしっかり向き合う。「創造力特区」という言葉から考えたときに、それが僕の中で出てきました。
今あるもの、自分が持っているものにどれだけ向き合えるかみたいな。ないものねだりをし出すと「あれがあったらこれができるのに」みたいな感じでどんどん考えが発散していくような気がするんですよ。だから、「自分が持っているものは何なんだろう」という方向にきちんと向いていけば、実はそれが創造性を生み出していくものなんじゃないかと考えています。
GO GOTSU! INTERVIEWS #22
SHINICHI MOTOSHIGE