TOMOYUKI UEDA
小売業・地域ブランド商品
浅利観光 株式会社 植田智之
私自身が何かをできるわけではない。
出来る人やいいものが周りにあるので、それを「つなぐ役」、じゃないかな。
人と人。モノとモノがつながったらいいじゃんって感じです。
素晴らしい人、技術がある人、それらが繋がっていったらどうなるかな?みたいな。
江津にはポテンシャルが十分あると思います。
GO GOTSU special interview #16
江津市に流れる江の川を境に東側の地区は「江東(こうとう)」と呼ばれる。市街地から江東に向かって国道9号線を走ると「神楽の里 舞乃市」というドライブステーションがあり、土産や食事を楽しむことができる。隣には、新鮮な地元食材がたくさん並ぶ、「道の駅サンピコごうつ」があり、休憩場所としても賑やかで市内・市外を問わず多くの人たちに親しまれている場所だ。2019年には「舞乃座」という石見地方 – 島根県西部 – を代表する伝統芸能「石見神楽」の公演を鑑賞するための舞台小屋がつくられた。
この「舞乃市」と「舞乃座」を経営しているのが、浅利観光株式会社。いくつもの事業を展開している会社だが、その中には、江津を代表する地域ブランド商品「江津まる姫ポーク」という精肉加工事業もある。地域とつながり、地域全体で江津の魅力を発信していくことを生業としている同社の常務取締役である植田智之さんにお話を伺った。
学校を出てプラントの会社に就職して、今とは全然違う場所にいたんですよ。島根に戻ることになって、平成20年(2008年)に「舞乃市」を作りました。
▲「舞乃市」店内の販売コーナー。観光客向けのお土産品の他、地域食材や自社商品もあるので地元の人たちもよく立ち寄る。
「様々な事業を展開されている浅利観光(株)ですが、今回は「舞乃市」や「舞乃座」「江津まる姫ポーク」そして、鑑賞する場所を作った側からの「石見神楽」についてお話を伺いたいと思っています。まず植田智之さん(以下、植田さん)の略歴と、現在の事業について聞かせてください。」
植田智之さん(以下、植田さん):この会社が創業してから、まもなく60年ですね。私の父親が浅利町出身でした。旧国道(現9号線)のところでガスや練炭の販売から始まったんです。その後、国道9号線が開通すると、今の「あさり亭」(食事処)がある場所に浴場があって宿泊ができるような施設を作ったんですよ。当時は、国道9号線の開通の影響も大きく、観光客もすごく多くて、24時間、フル回転状態でした。テーブル型のゲーム機があったり、いろんな人たちが楽しめるような場所でした。
そこから次の事業展開というところで、松江市役所の横に貸しビルを作ったんです。市役所の近くなら事務所としてニーズがあるでしょうし、いろんなお付き合いもあるなかで、いい場所をお借りすることができました。(※編集注 現在はこのビルは売却済み)その後は、駅前や市役所の前にビジネスホテルをトントン建てていきました。もちろんビジネス需要だけではなく、観光という市場も視野に入れながら経営していきました。
今では当たり前ですが、温泉大浴場をうたってビジネスと観光の両方を展開していくやり方は全国的にも最初の方だったと思います。時期的には平成5年(1993年)頃です。松江城が近いことも良かったと思います。それでも社長であった父親は「最後は、江津をなんとかしたい。」って思いがありました。ただその頃の私は、学校を出てプラントの会社に就職して、今とは全然違う場所にいたんですよ。島根に戻ることになって、平成20年(2008年)にここ「舞乃市」を作りました。
生まれは江津です。小学校2年から松江に引っ越して、高校を出てからは東京へ。29歳で島根に帰ってきて、10年間はホテル業でした。もともとは、プラント会社の情報システムの部署にいて、SE(システムエンジニア)をやっていたんですよ。そういうスキルを活かしてホテルのホームページ作ったりね。HTMLでカタカタと。(笑)楽天トラベルの前の「旅の窓口」の時代ですよ。ネット系からの予約の誘導をずっとやっていて。ホテルの現場からは「なんだこいつ?」って思われていたんでしょうね。(笑)
「浅利観光はファミリービジネスですね。SE畑出身の植田さんがホテル経営の一旦を担うことになるわけですが、人事やマネジメント、広報活動など異業種であることへの抵抗感などはなかったのでしょうか。」
植田さん:プラント会社の情報システム部にいたとは言っても、担当は人事だったんですよ。人事システム。だから人事や対人関係が必要とされる業種には抵抗はなかったですね。元々、学生時代からみんなでわーっと何かやるのが好きなんですよ。会社に就職したときも同期会の会長やったりね。会社をやめて30年近く経つけど、未だに東京に行って集まります。
マネジメントは、人間関係をケアしながら、新しいことをし、また新しいことを伝えていかないといけない。「こうやったらこうなるから、こうやりなさい」なんていってもうまくできないから、そこは丁寧にやるしかないですよね。
▲明るい声でテンポよくたくさんのお話をしてくれた植田さん。
「土産や休憩場所を提供するドライブステーションである舞乃市がオープンしてから10年以上の月日が経過しました。これまでの運営を振り返ってどう考えていますか?」
植田さん:江津、松江、東京にいて。それから観光系の仕事をやって。舞乃市をはじめるにあたって準備しているときに、一番最初に思ったのは「とにかくもったいない」ということです。「これだけ地域にいろんな資源があるのに、なんで地元の人が知らないんだろう?」ということ。地元の人が知らない、それが普通になっている。そして知らないことが当たり前になっている。
舞乃市がはじまって一年半ぐらいかな。もったいないということについて悶々としていたんですけど、「なんとかしなきゃ」という思いだけはあって、当時唯一知っていた白川和子さん(協同組合グループ 石見ブランド 事務局長)という方に相談したんです。そこで、事業をやっている方々が月に一度集まって、「江津にどんなものがあって、どんな風に売っていく?」みたいなアイディア出しをしている会を紹介してもらったんです。会議で「ごぼうがいい!」という話になって、桜江の反田さん(はんだ牛蒡)のところに行こうって話になったんだよね。
せっかくいいものがあるのに売る場所がないわけですよ。スーパーもないし。(笑)「協力するよ、やろうや!」ってなって。手書きで作ったチラシ配ったりして。その時は、市内の6店舗が参加してくれました。そこから様々な人たちとつながっていきましたね。それまで手弁当でやっていたんで、ある程度はカタチになってきたところで、助成金をいただこうという話になり、みんなで江津ブランド開発研究会を立ち上げました。とにかく、地元食材を知ってもらうために食のフェアを開催しました。
江津の豊かな地域資源。地元に当たり前のようにあるけど、みんな気付いていない。それを気付かせたいという気持ちが、事業のモチベーションになっている。
▲自社商品の他、地域の職人が作った神楽にまつわるお土産品も置いてある。
そこから植田さんは、事業を進めるためにはんだ牛蒡さんや真和漁業さん、豚肉を扱うマルナガファーム(農場)さんらと関係を深めていくことになる。加工製品の開発に向けてトライアルを繰り返す日々。生産者がつくる良質な食材を、いかにブランド化し、多くの人に伝え、販売していくか。ブランド化に成功して浅利観光の主力事業にまでなっている「江津まる姫ポーク」はどのようにして生まれたのだろうか。
植田さん:マルナガファームさんに加工肉の相談をしたら「浅利観光さんでやったらいい」って言われて、急いで肉の販売許可を取ったんですよ。ここは蹴るわけにはいかないと感じましたね。販路としては松江のホテルにも頼みましたし、給食にも扱ってもらおうと思って、–まだ給食センターなかったんですけど– 全部の小学校に配達に行って子供達に食べてもらいました。お肉を食べた小学生から名前を募集し、「江津まる姫」という名をつけてもらいました。そこから販路をつくっていきました。
結局、牛蒡もまる姫もあるものに、みんな気付いていないだけなんですよ。それを気づいてもらうことが私の仕事ですね。まずは江津の人たちが「まる姫ポーク美味しいよね。」ってならないといけない。すぐに外に持っていったらだめだなと思い、3~4年は市外に出さなかったですよ。「早く出せ」って言う人もいたんですけど、「そんなの絶対ダメ。まず、地元に根付かせてから。」って言っていましたね。
今、おかげさまで安定しています。週に20頭、月に100頭弱くらい卸しています。スーパーさんがあって、飲食店さんがあって、ふるさと納税もあって、たくさんの方に江津まる姫ポークをご賞味いただいています。
儲けたくて始めたわけじゃなくて、ルールを決めたかった。この先も石見神楽がきちんと自走できるようにしたいから。
石見神楽のための舞台「舞乃座」についてお聞きする。石見神楽は古事記や日本書紀などにある神話の物語を表現し、その年の豊作・豊漁、無病息災を祈願し、神々に捧げる儀式として石見地方ではかなり古くから存在する伝統芸能だ。丈夫な和紙で作られる面や手刺し刺繍で彩られた華麗な衣装、響き渡る太鼓や笛のお囃子の音。石見神楽そのものが貴重な地域財産でもある。演者が舞台の上で動くことを総じて「舞う」と呼ぶ。(踊る、とは呼ばない。)まさに生の舞いを鑑賞できるのが「舞乃座」である。
植田さん:舞乃座は平成31年(2019年)3月にオープンしました。舞乃座がオープンするまでは、隣接する舞乃市の舞台で神楽公演を行っていました。語弊があるかもしれないですが、神楽公演を始めた頃、弊社が御花(公演料)を払ってお客さんに来ていただいて、喜んでもらうやり方でした。
初めはそれで良かったのですが、「これだけ良いものをいつまでも無料観覧にするのはどうなのかな」と考えるようになりました。公演する演目についても人気の演目だけではなく、1年間かけてすべての演目(30数演目)をやりました。そして、やりながら変化させていきました。
▲この舞台小屋の建設は実際に使う人たち(神楽社中のみなさん)の意見をなによりも重視して進めたという。舞台照明による演出が特徴的だ。
その次に思ったことは、初めて見る人は、事前に情報を持っていない限り神楽を理解できないんですよ。そこで神楽を鬼が出てくるもの、ヒーローが出てくるものなどカテゴリーに分けて、解説付きの神楽公演を行いました。演目を始める前に、神楽の内容を説明したり、登場人物を解説してから観てもらうことで理解しやすくなる。それも無料で。(笑)
神楽が無料であることには、長い歴史があるんですよね。色々と話しを聞くと、昔は地域の大人たちの寄付で公演していた。その大人についてきた子供が今の大人。その人たちがお金を払わないで来ているから、それが根づいちゃったとか...。古き良き伝統だけど、神楽は無料で観るもんだという慣習。でもね、社中さんって運営していくのにすごいお金が掛かるんですよ。なので神楽の有料化を始めたんです。まあ、色々言われましてね...。儲けたくて始めたわけじゃなくて、ルールを決めたかったというのはあります。
そしたらね、神楽社中さんから変わっていくんですよ。「この人(お客さん)からお金をもらっているんだ。頑張らなきゃ。」って。「もっと、ちゃんと練習しよう」って。そうやってみんなで段々と機運を高めていって「よし、やろう!」って言いながら舞乃座をつくっていきました。
「やっぱり人がやることですからね、そこにいる人たちがいかに気持ちのよい環境を作っていけるか。まさに植田さんが音頭をとって進めていったのでしょうか。」
植田さん:もちろん私一人では、できないですよ。理解してくれる方、協力してくれる人、私が間違っていたら意見してくれる人がいるからできる。私はあくまで裏方。社中さんっていうプレーヤーが納得して、先が見える形をつくることが大事。
やって良かったことは、社中さんが活き活きしていること。やる気を持っている人のところに仲間が集まってくるんです。最初は市内にある大都神楽団さんと谷住郷神楽社中さんでスタートしました。それから5~6社中集まってきました。ここにある照明も最初からあったのではなく、「もっとこうしたい」、「ああしたい」、「どうやってお客さんに喜んでもらおうか」って考えた結果できたものです。そんな風に話しているとみんな目が輝いているんです。
90才ぐらいのお客さんとその娘さんが70才くらいかな、親子で見に来てくれるんですが、そのおばあちゃんは耳が聞こえないんです。神楽見ても面白くないと思うんだけど、この会場は神楽の音がズシンと身体に入ってくるそうなんです。五感で感じる神楽って、やって良かったなあって思いました。運営は弊社じゃなくて実行委員会がやっています。いただいた入場料は、実行委員会の運営費や会場費にさせていただいています。お客さんが入ったら入った分だけ社中さんに入るようにしています。なので、弊社は会場代をもらう大家さんですね。この先も、神楽公演が自走していくために、この仕組みを続けていきたいですね。
コロナ社会は、しばらく続いていくことが予想される。特にイベント業や観光業などは大きな打撃を受けていると言われるが、これからの観光産業のあり方についてどのような見解を持っているのかを伺った。
植田さん:大きく変わるものではない、と思います。石見神楽が知られていない、それをしっかり発信していきます。素晴らしいものだと思うので、それをしっかり観ていただく。コロナの影響はありますけど、インバウンドの素材としても一番良いものだと思っていますし、世界に誇れるものだと思います。
江津がどうというよりは、広島も島根も石見も大きなエリアで考えていかないと。江津だけに来て、江津だけで買い物して、食べて泊まって帰る人なんていないんですから。何か一つでも江津でしてもらえればいいんです。すぐ近くには温泉津温泉もあるし、有福温泉だってある。
「いろんなところで、いろんなこと楽しめるね」、「じゃ、いつ行ってもいいよね」、「じゃ今度ここ行ってみよう」、みたいな。そういうことを考えて発信していけば、ポテンシャルは十分あると思います。
「植田さんのお話を伺っていると自分が前に出てどうこうって感じではないですね。むしろ自分以外の人の場所を作っていくように見えるというか。ご自身の立ち位置や役割を客観的にどんな風に見ていますか。」
植田さん:私自身が何かをできるわけではない。出来る人やいいものが周りにあるので、それを「つなぐ役」、じゃないかな。人と人。モノとモノがつながったらいいじゃんって感じです。素晴らしい人、技術がある人、それらが繋がっていったらどうなるかな?みたいな。私は料理ができるわけでもないし、何かを作れるわけじゃないですから。
▲石見神楽の人気演目『大蛇(オロチ)』。新型コロナウイルス感染を気にせずにいつでも観覧できる日がやってくることを願うばかりだ。
このGO-GOTSU!というウェブサイトの存在意義としては、主に都市部向けに江津の今を発信し、知ってもらうということが第一にある。様々な価値観があり、何が常識かも多様化していくこの時代に、これからどうやって生きていこうかなと考える人に見てもらいたい、という意図もある。そんな町、江津から発信するメッセージがあるとすれば、どんなものがあるかをお聞きしてみた。
植田さん:どうなんだろう…。難しいな。見られる視点によって違いますよね。田舎に行こうって人がどんな考え方とか、何を求めているのか…。
作り手の話で言うと、焼き物もそうだし、和紙もそうだし、まあみんな変態ですよ。(笑)わざわざこんな田舎で辺鄙なところで、一生懸命いいものを作ろうとしているわけですよ。私は地域愛を感じます。そんな人たちと美味しいもん食べながら語るとか、そういう時間はいいですよ。
都会から来る人って仕事は大事だけど、それだけで来たいわけじゃないですよね。黒松海岸の夕陽めっちゃいいよって言うけど、地元の人はわざわざ行かないじゃないですか。行ったらいいと思うし、そういうものを一つ一つ伝える環境ができたら、江津の魅力じゃないですか。東京から視察で来る方、みんなハマりますよね。これからも「海、綺麗だよね。」を伝えたいかな。こっちの当たり前を伝えたい。普通の生活、見る人から見れば、ものすごい贅沢に見えるわけですよ。
今、当たり前にあるものをどう伝えていくのかを考えているだけですね。無理したってダメ、かっこつけても無駄。ありのままでいること。どう組み合わせて、どう見せられるのか、どうやってその良さを理解してもらうのかを考えています。
私、人見知りなんですよ。特に、初対面はダメなんですよ。自分から行けないですよ、人見知りなんで。嫌われたくないから。(笑)怖い人って言われるんだけど。直さなきゃなって思うんですけど。なかなか自分から「こんにちは。」って行けないんですよ。
表に出る人間じゃないんで、いいことは他の人がやってもらっていいんですよ。もう55才ですから。(笑)他の人が輝いてもらって、そのための環境づくりを私がやる。その方が好きですね。目立ちたい方じゃないんで。ただ、やる人がいないならやりますよ。それが人のためになるなら。誰かの宣伝ならやりますよ。
GO GOTSU! special interview #16 / TOMOYUKI UEDA